フゥ…やっぱりこの店は落ちつくな。
カウンターに座り、琥珀色の液体を少しずつ胃に流し込むと、体の奥でポッと火が灯されたような感じがする。
ああ、今週も忙しかったな。
店内を見渡せば、所帯じみ…レトロでアンティークな家具や調度品の数々。それらは訪れる人の緊張を解すよう、計算されたディスプレイ。
暖かい春の陽射しが、年代物のガラスを通し店内を優しく照らす。
ここは疲れた大人たちの癒しの場。
幼少期に失われた秘密基地。
「すこし生き急いでいるな」
なんて感じたら、車を走らせ軽井沢までランナウエイ。
でもこの時期の、セールで賑わう新軽井沢エリアはノーサンキュー。アウトレットなんて、プレートになんでも乗っているお子様ランチみたいでくすぐったい。
無邪気に喜んであげてもいいけれど、掌で踊ってあげるのは仕事だけでもうたくさん。
日中もひっそり静まり返る、閑静な別荘地が続く旧軽井沢エリア。
木立を抜けながら、鳥たちのさえずり、木や土の匂い、日向と日陰の温度差、ナチュラルな情報を全身で感じる。
そんな贅沢な休日の昼下がり。
世界的なパンデミックの影響は、御多分にもれずここ軽井沢へも多大なる影響を及ぼしたけれど、冬が過ぎれば春が来るように、軽井沢銀座も数年前の賑わいと活気が戻ってきたみたい。
避暑地としてのシーズンは夏だけれど、この時期だって全国津々浦々、また海外からも人々が訪れるのは有名観光地の面目躍如。
それが軽井沢。
家族やカップル、友人達やお一人様、誰もかれもが幸せそうに、派手な店構えや魅力的な商品に目を奪われている。
それはある意味、人に誠実に整備された街並みだけど、それに少しでも飽いたなら、ちょっと路地に目を向けてみて。
建物と建物の間のその先に、それは忽然と現れるから。
中華そば『美乃屋』
通りから数メートルしか移動していないのに、軽井沢銀座の喧騒がまるで夜風に乗って聞こえてくる、遠くの村の祭り囃しのよう。
ここは非会員制の大人たちの隠れ家。
6席しかないカウンターに座ったら、頬杖をつき琥珀色したお茶入りのグラスをけだるく回して、オーダーした中華そばの到着を待つのもよし。
でも、ここのオーナーである二人の女性は、そんな事は決して許さない。
「観光に来るお客さんは、クレープだの濡れ煎餅だの、食べ歩き出来るものばっか買うんだよ‼ まったく!」
「トイレに行きたかったら、ウチで済ましていきなよ。軽井沢銀座の公衆トイレは有料だからね‼ アハハハハ!」
「ちょっと!食事前にトイレの話なんかするもんじゃないよ‼ ねえ。ハハハハ!」
「車で来たの?だったら〇〇の駐車場がいいよ。なんだったら郵〇局の駐車場だっていいよ。ATMを使ったとでも言えばいいんだからさ。なんてねー、アハハハハ!」
スマホを見ている暇さえ、きっと貴方には与えられないのだから。
サービスのチャーシューご飯。
濃いィィィ味付けが、まるで健康のために食事を取っているような人たちの、文字通り味気のない人生に疑問を投げかける。
思い切りご飯かき込んじゃって。
ネギにメンマ、チャーシューに煮卵、ここの中華そばには、足りない物なんて何もない。
充足が心も充たす。
それが生きるための食事。
ズルズル…ハフハフ…美味しい~!
店にはテレビもラジオも何もない。中華そばをすする音と、二人のおばちゃ…女性オーナーたちの楽しげな会話、それだけがBGM。でも、それ以外は何もいらない。
丼から麺が無くなるのと共に、豊潤な時間が幕を閉じる。
軽井沢には、年間数百万人が観光で訪れるという。
そのうちのどれくらいが、記憶に残る食事をしてこの地を後にするのだろう。
時には余所見をしてみて。
面白いことが待っている、かも。